水脈 ― 河口(かこう)
第五章 出汁と旨味 — 昆布、鰹節、そして「うま味」の発見
Washoku, the Fermented Cuisine — Chapter Five: Dashi and Umami — Kombu, Katsuobushi, and the Discovery of Umami
はじめに — 引き算を支える、見えない柱
序章で、和食を「引き算の料理」と呼び、その奥に「うま味」があると述べた。第三章では、肉を断った精進の厨房が、昆布と椎茸の出汁にたどり着くのを見た。第四章では、熟れ鮨のなかで、魚のたんぱくがうま味へと変わるのを見た。これらの糸は、すべて一点に集まる。出汁とうま味である。
本章は、その核心へ入る。和食の引き算を、見えないところで支えてきた柱。それが出汁だ。そして、その出汁の一方の主役である鰹節が、じつはカビの発酵食品であることを、まず確かめておきたい。
一 鰹節 — 世界一硬い、発酵食品
鰹節には、二つの種類がある。荒節(あらぶし)と、枯節(かれぶし)である。両者を分けるのは、カビを付けて発酵させているかどうか、という一点だ。1
煮た鰹を、薪でいぶして乾かしたものが、荒節。これはまだ、発酵食品ではない。発酵食品と呼べるのは、その先にある枯節——荒節の表面を削り、カビを付け、天日に干す、という工程を経たものである。1 用いられるのは、アスペルギルス・グラウクスと呼ばれる、選ばれた良性のカビ。味噌や醤油をつくる麹と、同じカビの仲間だ。2
このカビ付けを、一度ならず、二度、三度、四度と繰り返す。一番カビ、二番カビ……と付けては払い、天日に干す。これを重ねたものを本枯節という。完成まで、半年近くもかかる。1 カビは、鰹節の内部から水分を吸い出していく。こうして徹底的に乾いた本枯節は、水分が一割ほどしかない。「世界一かたい発酵食品」とも呼ばれる所以である。1
カビは、ただ硬くするだけではない。たんぱく質を分解してアミノ酸のうま味を蓄え、脂肪を分解して澄んだだしをつくり、悪いカビの侵入を防ぐ。3 味噌や醤油で見た、あの麹の仕事が、ここでは魚の身に、時間を刻んでいる。鰹節とは、魚を、カビと時間でつくり変えた、発酵の結晶なのである。
二 二つのうま味 — 昆布と鰹節
和食のだしは、しばしば二つの素材を組み合わせる。昆布と、鰹節である。
この二つは、異なる種類のうま味をもっている。昆布のうま味は、グルタミン酸。アミノ酸の一種で、植物性の食材に多い。4 いっぽう、鰹節のうま味は、イノシン酸。こちらは核酸系のうま味物質で、肉や魚といった動物性の食材に多い。4 植物のうま味と、動物のうま味。性質の異なる二つを、和食はひとつのだしのなかで出会わせてきた。
三 相乗効果 — 一と一が、七にも八にもなる
なぜ、二つを合わせるのか。ここに、和食のだしの、最も深い秘密がある。
性質の異なるうま味成分——グルタミン酸と、イノシン酸(あるいはグアニル酸)を組み合わせると、それぞれを単独で味わったときの、ただの足し算をはるかに超えて、うま味が一気に強まる。その差は、最大で七倍、八倍にもなるという。5 これを「うま味の相乗効果」と呼ぶ。昆布のグルタミン酸と、鰹節のイノシン酸。和食の一番だしの、あの澄んだ深さは、この掛け算から生まれていたのである。5
ここで、第三章で残した問いに答えが出る。肉を断った精進の厨房が、昆布(グルタミン酸)と干し椎茸(グアニル酸)を合わせて、動物性なしに深いだしを引いていた——あの工夫もまた、まさにこの相乗効果であった。植物と植物を掛け合わせることで、肉なしに満ちた味をつくる。精進の料理人は、理屈を知る前から、舌でこの掛け算を知っていたのだ。
そして、この知恵は、日本だけのものではない。西洋のブイヨンも、中国の湯(タン)も、野菜のグルタミン酸と肉のイノシン酸を合わせている。5 人類は、うま味という言葉を知るずっと前から、経験として、この掛け算を料理に活かしてきたのである。
四 うま味、という発見 — 一九〇八・一九一三・一九五七
では、この経験は、いつ言葉になったのか。三人の日本人が、半世紀をかけて、その正体を解き明かしていく。
最初は、一九〇八年。東京帝国大学の池田菊苗が、昆布のだしから、うま味の正体がグルタミン酸であることを突きとめ、これを第五の味「うま味」と名づけた。6 次いで一九一三年、池田の弟子・小玉新太郎が、鰹節のうま味成分がイノシン酸であることを明らかにする。6 そして一九五七年、醤油醸造の研究所にいた国中明が、干し椎茸のうま味成分がグアニル酸であることを発見し、あわせて、あの相乗効果のしくみをも見いだした。6
昆布、鰹節、椎茸——古くから日本のだしを支えてきた三つの素材。そのうま味成分は、いずれも日本人の手によって、半世紀のあいだに、ひとつずつ言葉を得ていった。やがて一九八五年、国際シンポジウムを機に、「umami」は世界共通の言葉となる。6 経験が先にあり、言葉は後から追いついた。和食は、舌が知っていたことを、科学がようやく説明したのである。
結び — 時間を、舌で味わう
ここで、ひとつのことに気づく。昆布も、鰹節も、干し椎茸も——だしの素材は、みな、乾かされ、あるいはカビを付けられ、長い時間を経たものばかりである。生のままでは、これほどのうま味は出ない。時間が、素材のなかにうま味を育てる。
つまり、うま味とは、つきつめれば、時間の味なのである。本書がはじめに掲げた背骨——発酵とは、時間を食べる文化であるということ——は、この出汁において、最も澄んだかたちをとる。私たちは一杯のすまし汁のなかで、何ヶ月もの時間を、舌で味わっている。
その出汁を、日々の料理で生かすのが、台所の調味料たちである。次章では、水脈はいよいよ台所に降りる。さしすせそ——その味の土台もまた、ほとんどが発酵であることを、確かめていきたい。
文献・出典
※ 本稿は和食をめぐる白書の第五章である。記載した事実は出典に基づく。「発酵食品としての鰹節」は、カビ付けを経た枯節・本枯節を指し、カビ付けをしない荒節は含まない点を本文に明記した。うま味発見の年代・人名は出典に拠った。なお池田菊苗のうま味発見の動機をめぐっては諸説があり、本章は特定の逸話に依拠していない。本章は出汁とうま味を文化・科学史の側面から扱い、健康上の効能には立ち入らない。
Footnotes
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「かつお節のきほん」みんなの発酵BLEND(鰹節が荒節〔燻製・非発酵〕と枯節〔カビ付け=発酵〕に分かれ、カビ付けを複数回行ったものを本枯節と呼ぶこと、製造に数か月を要し、徹底的に水分を抜かれた枯節が「世界一かたい発酵食品」といわれることに関する記述)https://www.hakko-blend.com/study/hakkofood/09.html /「鰹節|世界でもっとも硬い発酵食品?」発酵日和(焙乾後にカビ付室で一番〜四番カビと天日干しを繰り返し、四〜六か月かけて枯節・本枯節が完成することに関する記述). https://www.hakko-biyori.com/dictionary-43 ↩ ↩2 ↩3 ↩4
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「かつお節は発酵食品!?」ヤマキ(カビ付けに用いる優良カビがいずれもアスペルギルス・グラウクス群に属し、脂肪を分解して上品な風味とうま味を際立たせること、悪性カビの発生を防ぐ効果もあることに関する記述)https://www.yamaki.co.jp/katsuobushi-plus/news/202310_hakkou/ /「鰹節ができるまで」オク(裸節をカビ室〔温度二五〜二六℃・湿度八四〜八五%〕に入れ、一番カビ・二番カビ・三番カビと付けて枯節・本枯節とすることに関する記述). https://www.oku1925.co.jp/product/ ↩
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「カビ付けの変遷」にんべん(鰹節かびが節表面の水分を使うことで中心部の水分も減り硬くなること、脂肪分を分解して濁りの少ない澄んだだしになることに関する記述)https://www.ninben.co.jp/about/katsuo/kabitsuke/ /「かつお節のきほん」みんなの発酵BLEND(鰹節の主成分がイノシン酸であり、カビのプロテアーゼがたんぱく質を分解してグルタミン酸などのアミノ酸を蓄積させ、核酸系とアミノ酸系のうま味の相乗効果が生まれることに関する記述). https://www.hakko-blend.com/study/hakkofood/09.html ↩
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「うま味の秘密はカビにあり?」アマノフーズ(昆布の主要なうま味成分がアミノ酸の一種グルタミン酸で植物性食材に含まれること、鰹節の主要なうま味成分がイノシン酸で肉や魚などの動物性食材に多いことに関する記述)https://www.amanofoods.jp/regular/mano/22093/ /「核酸系うま味物質と相乗作用の発見」うま味インフォメーションセンター(グルタミン酸がアミノ酸であるのに対しイノシン酸が核酸系の物質であることに関する記述). https://www.umamiinfo.jp/what/attraction/discovery/ ↩ ↩2
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「うま味の成分」日本うま味調味料協会(グルタミン酸と核酸系のイノシン酸・グアニル酸を組み合わせると単独より最大七〜八倍うま味が強くなる「うま味の相乗効果」があること、日本料理では昆布とかつお節、西洋・中国料理では野菜と肉を組み合わせるなど、発見以前から世界各地で経験的に活かされてきたことに関する記述)https://www.umamikyo.gr.jp/knowledge/ingredient.html /「あじのひみつ」味の素(昆布のグルタミン酸と鰹節のイノシン酸を合わせるとうま味が約七〜八倍に強まることに関する記述). https://ajicollab.ajinomoto.co.jp/assets/img/material/pdf/information.pdf ↩ ↩2 ↩3
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「核酸系うま味物質と相乗作用の発見」「うま味インフォメーションセンターとは」うま味インフォメーションセンター(一九〇八年に池田菊苗が昆布からグルタミン酸を「うま味」と命名し、一九一三年に小玉新太郎が鰹節からイノシン酸を、一九五七年に国中明が干し椎茸からグアニル酸を発見し、国中が相乗作用も見いだしたことに関する記述)https://www.umamiinfo.jp/what/attraction/discovery/ /「三大うま味成分」姫野一郎商店(一九〇八年グルタミン酸〔池田菊苗〕、一九一三年イノシン酸〔小玉新太郎〕、一九五七年グアニル酸〔國中明・ヤマサ醤油〕の発見と、一九八五年の第一回うま味国際シンポジウムで「umami」が世界共通語となったことに関する記述). https://shiitake-himeno.co.jp/blog/2631 ↩ ↩2 ↩3 ↩4