水脈 ― 河口(かこう)
第四章 鮨の起源 — 熟れ鮨、魚を米で発酵させる
Washoku, the Fermented Cuisine — Chapter Four: The Origin of Sushi — Narezushi, Fish Fermented in Rice
はじめに — 寿司の、もう一つの顔
私たちが寿司と呼ぶもの——新鮮な魚と、酢飯。火も通さず、長い手間もかけない。それは、和食の「引き算」の、ひとつの極みのように見える。
ところが、その寿司の遠い祖先は、まったく逆の顔をしていた。何ヶ月も、ときに何年もかけて発酵させた、匂いの強い保存食。鮨もまた、菌の料理として始まったのである。前章の精進料理が、殺生を避けて魚を遠ざけたのとは反対に、こちらは魚を、積極的に発酵させる道であった。
一 米は、漬け床だった — 熟れ鮨という保存食
寿司の最も古い姿を、熟れ鮨(なれずし)という。魚を塩と米飯のなかに漬け込み、長い時間をかけて乳酸発酵させた食品である。1 冷蔵庫のなかった時代に、貴重な動物性のたんぱく質を保存するための、知恵であった。
ここで、現代の感覚を裏切る事実がある。このとき、米は食べるためのものではなかった。米は、魚を発酵させるための「漬け床」であり、漬け終わったあとは、捨てられていた。食べるのは、魚だけ。1 人々は、米という貴重な穀物を、まるごと発酵装置として使っていたのである。
漬け込んでいるあいだ、何が起きているのか。米の上で、乳酸菌が乳酸をつくる。その酸が、全体を酸性にし、腐敗の菌を寄せつけない。同時に、魚のたんぱく質の一部が、アミノ酸へと変わっていく——すなわち、うま味が増していく。2 保存と、うま味。この二つを、菌が同時にもたらしていた。
二 メコンから、琵琶湖へ
この技は、どこから来たのか。起源には諸説あるが、東南アジア——メコン川の流域など、海から遠い内陸の保存食にさかのぼるとされる。3 そして、稲作の伝来とともに、日本へと伝わってきた。文献のうえに「なれずし」が現れるのは、十世紀のこと。平安の法典『延喜式』には、近江(滋賀県)のなれずしが記されている。3
海から離れた琵琶湖のほとりでは、この技が淡水魚に用いられ、鮒寿司(ふなずし)となった。春に獲った鮒を塩に漬け、夏に飯とともに本漬けし、強く重石をして、翌年の正月ごろから食べはじめる。2 古代のなれずしの姿を、今に伝える生きた化石である。
奈良・平安のころ、なれずしは、朝廷への貢ぎ物であり、租税でもあった。近江や若狭から、鮎や鮒のすしが都へ運ばれた。3 それは、とても庶民の口に入るようなものではない、貴重な品だったのである。
三 待ちきれぬ人々 — 生成、そして酢へ
長い発酵は、保存には優れていた。だが、人は待ちきれなくなる。
室町時代になると、生成(なまなれ)と呼ばれる、新しい食べ方が現れた。発酵の期間を短く切り上げ、酸味が出はじめたところで食べる。4 このとき、これまで捨てていた米を、魚といっしょに食べるようになった。米にほどよく酸味が移り、酢飯のような味になっていたからである。織田信長や豊臣秀吉が口にした「すし」も、この生成であったと伝わる。4
そして江戸時代。人々はついに、発酵を待つことそのものをやめてしまう。米に酢を合わせれば、何ヶ月も待たずとも、あの酸味が、すぐに手に入る。こうして、酢飯と生の魚を握る早ずし——握り寿司が生まれた。5
ここに、ひとつの静かな置き換えがある。何ヶ月もの乳酸発酵がつくっていた酸味を、酢が肩代わりしたのである。けれど、見落としてはならない。その酢もまた、発酵から生まれたものだ。発酵の酸味は、消えたのではない。別の発酵の産物へと、姿を変えて受け継がれた。酢の物語は、第六章であらためてたどる。
四 二つの菌が、ここにもいる
鮨の発酵を担うのは、乳酸菌——細菌である。第二章で見た納豆と同じく、これは麹(カビ)ではない、細菌の水系に属している。和食のもう一つの流れが、ここにも顔を出している。
もっとも、鮨のなかにも、麹の系統は紛れ込んでいる。米飯だけで発酵させるなれずしに対し、そこに麹を加えて漬ける「飯寿司(いずし)」がある。北陸のかぶら寿司や、秋田のハタハタ寿司がそれである。6 麹と細菌——和食の二つの水系は、この小さな保存食のなかでも、静かに分かれて流れている。
そしてもう一点。鯖の熟鮓などは、土蔵のなかでじっくりと発酵させる。2 涼しく、暗く、温度の振れない蔵が、この長い熟成を抱える——第二の白書『淵』でたどった、あの建物が時間を抱える姿が、ここにも重なっている。
結び — 速さが、発酵を覆った
握り寿司は、発酵という長い時間を「省略」することで、手軽になり、やがて世界へと広がっていった。今や寿司は、火も発酵も使わない、鮮度の料理の象徴である。
けれど、その酸味のなかには、何ヶ月もの発酵の記憶が、たしかに残っている。速さが発酵を覆い隠したが、消し去ったわけではない。日本人がもつ「酸味を喜ぶ」という独特の嗜好も、この長い発酵の歴史が育てたものだといえる。5
そして、熟れ鮨のなかで、魚のたんぱくがアミノ酸=うま味へと変わっていたこと——あの現象は、和食の味の中心にある「うま味」そのものである。次章では、いよいよその核心、出汁とうま味の世界へと分け入っていく。
文献・出典
※ 本稿は和食をめぐる白書の第四章である。記載した事実は出典に基づく。なれずしの起源や日本への伝来の年代には諸説があり、本章は「東南アジア起源・稲作とともに伝来・文献初出は十世紀」とする代表的な説に拠った。信長・秀吉が生成を食したとする点も伝承を含む。本章は鮨を文化・歴史の側面から扱い、健康上の効能には立ち入らない。
Footnotes
-
「すしの始まりは“なれずし”から」米穀安定供給確保支援機構(米ネット)(すしが東南アジア起源の魚の加工法で稲作とともに日本へ伝わったとされること、魚介を塩とともに米飯に何か月も漬け込むと飯が糖化して乳酸発酵し酸味が生じ、魚肉のたんぱく質が自己分解してうま味となること、この場合の飯は漬け床であって食用にはしなかったことに関する記述). https://www.komenet.jp/bunkatorekishi/bunkatorekishi10/bunkatorekishi10_2 ↩ ↩2
-
「こんなところにも乳酸菌! なれずし」KOSMOST(鮒寿司を春に塩漬けし夏の土用に飯と重ねて本漬けし翌年正月頃から食べること、漬け込む間に乳酸菌が飯を発酵させ乳酸で酸性化して雑菌の繁殖を抑え、魚のたんぱく質の一部がアミノ酸に変化してうま味が増すことに関する記述)https://kosmost.jp/microorganisms/nyusankin-narezushi/ /「寿司の元祖 熟鮓」東邦大学医療センター大森病院 東洋医学科(鮒鮓の調製と乳酸発酵によるうま味・防腐、鯖の熟鮓を土蔵の中で発酵させることに関する記述). https://www.lab.toho-u.ac.jp/med/omori/oriental_med/guide/column_food/column20180326.html ↩ ↩2 ↩3
-
「日本古来のすし『なれずし』」CNN.co.jp(なれずしが西暦二世紀ごろ東南アジアの大部分で用いられた製法であり、八世紀ごろ日本に伝わったと考えられ、文献に現れたのは十世紀であること、発酵した飯はもとは廃棄し魚のみを食べていたことに関する記述)https://www.cnn.co.jp/travel/35114389.html /「なれずし」Wikipedia(『延喜式』に近江のなれずしがみえ古くから作られていたこと、起源が東南アジアや中国南部に点在することに関する記述)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%81%9A%E3%81%97 /「すしの始まりは“なれずし”から」米ネット(なれずしが古代に朝廷への貢納・租税として用いられたことに関する記述). https://www.komenet.jp/bunkatorekishi/bunkatorekishi10/bunkatorekishi10_2 ↩ ↩2 ↩3
-
「<生なれずし>の登場」ゐざさ中谷本舗(保存食のなれずしが、室町時代に発酵期間を短くして飯も一緒に食べる生なれずしへと変化し、貴重な飯を捨てずに魚と食べるようになったこと、十六世紀の茶席の献立や信長・秀吉の食したすしが生なれずしであったとされることに関する記述)https://www.izasa.co.jp/blog/sushi-roots02-83/ /「寿司の歴史と熟鮓についての話」オトコ中村の楽しい毎日(室町時代に生なれずしが登場し、短い熟成で飯に酸味が出た頃に食べることに関する記述). https://otokonakamura.com/storyofnarezushi/ ↩ ↩2
-
「寿司の起源」コメラボ(発酵を重視するなれずしから、発酵を控えた早ずしへと変化し、米飯を酢になじませて魚と一緒に食べるスタイルが生まれたことに関する記述)https://note.com/japaneserice88/n/n43e2c3728faf /「すしの始まりは“なれずし”から」米ネット(米飯を酢になじませる早ずしが普及したこと、酸味を喜ぶ日本独特の食嗜好に関する記述). https://www.komenet.jp/bunkatorekishi/bunkatorekishi10/bunkatorekishi10_2 ↩ ↩2
-
「なれずし」Wikipedia(発酵に米飯のみを用いるものがなれずし、米と麹を用いるものが「いずし」であり、いずし系に石川県のかぶら寿司や秋田県のハタハタ寿司があることに関する記述)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%81%9A%E3%81%97 /「すしの始まりは“なれずし”から」米ネット(飯に麹を加えて魚を発酵させるかぶらずしなどが「いずし」と呼ばれる別系統であることに関する記述). https://www.komenet.jp/bunkatorekishi/bunkatorekishi10/bunkatorekishi10_2 ↩