碧南醸造文化誌

第五章

時を醸す土地 — 発酵と、日本の精神文化

Hosomichi Chronicle of Hekinan — Chapter Five


はじめに — 発酵という「待つ」営み

ここまで、碧南の発酵を、歴史と産業と生態系として辿ってきた。本章では最後に、この土地の発酵が宿すもう一つの深層——その「精神」へと分け入りたい。

発酵とは、つまるところ「待つ」営みである。仕込んだのち、人にできることは限られている。あとは麹菌の働きに委ね、時間が素材を変えていくのを、ただ待つ。みりんの数年の熟成も、八丁味噌の二夏二冬も、白醤油の三ヶ月も——いずれも、人の手を離れて時間そのものが醸す、長い「待ち」の時間である。

この「待つことを尊ぶ」姿勢は、碧南だけのものではない。それは、日本という国が千年以上をかけて育んできた、より大きな精神文化——禅、茶の湯、わび・さび、そして武士道に通じる美意識——の、いわば食における現れである。本章では、その千年の精神性が、いかにしてこの土地の発酵と響き合っているのかを描きたい。なお、日本の精神文化そのものの深い体系については、Hosomichiの別稿「日本の精神世界観」に譲り、本章では碧南の発酵に流れ込むその水脈を辿ることに専心する。


一 千年の源流 — 禅とともに来た茶

碧南の精神的な深さを理解するには、隣接する西尾の地に遡るのがよい。そこに、この地域の精神文化の、千年近い源流があるからだ。

西尾の抹茶の起源は、文永八年(一二七一年)にさかのぼる1。実相寺の開祖・聖一国師(しょういちこくし/円爾弁円)が、宋(中国)から持ち帰った茶の種を、その境内に播いたのが始まりとされる12。実相寺は、三河で最初の臨済宗——すなわち禅宗——の寺院であった3

ここに、決定的な事実がある。茶は、禅とともにこの地へ来たのである。

聖一国師は、日本最初の茶書『喫茶養生記』を著した臨済宗の開祖・栄西(えいさい)の弟子であった4。栄西や聖一国師は、宋での生活のなかで、茶に養生延命の効力があること、そして飲むと頭が冴え、禅の修行に欠かせないことを実感し、茶の効用を広めていった4。禅僧にとって茶は、眠気を払い、心を澄ませ、修行を支える「養生の飲み物」だったのである5

つまり、三河の地に茶がもたらされたその最初から、茶と禅は分かちがたく結びついていた。これは、明治の出来事でも、江戸の出来事でもない。鎌倉時代、約七五〇年前に、この地に根を下ろした精神文化の源流である。碧南の発酵が二百年なら、この地の茶と禅は、その三倍以上の時を遡る。


二 「待つ」という共通の精神

禅とともに来た茶は、やがて茶の湯へと深められ、日本独自の美意識——わび・さび、「間」、簡素のなかの豊かさ——を育んでいった。そしてこの美意識は、発酵という営みと、深いところで通じている。

その通底するものを一語で言えば、「待つ」である。

茶の湯における作法は、「待つ」ことと「心を整える」ことに満ちている。客は、茶会に招かれると、まず露地(茶庭)を通り、浮世の塵を払い、心を整えてから茶室へ入る。一服の茶のために、時間をかけて場を整え、所作を尽くす。性急を排し、いまこの一瞬に集中する——その姿勢こそ、茶の湯が禅から受け継いだものである。

発酵もまた、同じ「待つ」の上に立っている。蔵人は素材を仕込んだのち、麹菌と時間に仕事を委ねる。焦って早めることはできない。二夏二冬を、数年を、ただ静かに待つ。そこにあるのは、時間を信頼し、人為を抑え、自然の働きが熟すのを待つという態度である。

茶人が一服の時間に心を委ねるように、蔵人は数年の歳月に味を委ねる。所作の規模こそ違え、その根にある精神——「待つことを尊ぶ」——は、同じ一つの水脈から流れ出ている。碧南という土地は、味噌や醤油やみりんを醸すと同時に、この「待つ」精神そのものを、千年の昔から受け継いできたのである。


三 不易流行 — 変と不変をめぐる、もう一つの知恵

碧南の発酵が宿すこの精神を、別の角度から照らす言葉がある。松尾芭蕉の俳諧理念、「不易流行(ふえきりゅうこう)」である。

「不易」とは、時代を超えて変わらないもの。「流行」とは、その時々に応じて変化していくもの6。一見、相反するこの二つは、芭蕉においては根本で一つに結ばれている6。芭蕉の門人・向井去来は、俳論書『去来抄』にこう記す——「不易を知らざれば基(もとい)立ちがたく、流行を知らざれば風(ふう)新たならず」7。変わらぬものを知らねば基礎は立たず、変わるものを知らねば新しさは生まれない、という7。もう一人の門人・服部土芳は、その根本を「風雅の誠(まこと)」と呼んだ8

この言葉ほど、碧南の発酵を言い当てるものはない。

蔵は、二百年、製法を変えない。木桶を守り、麹を守り、仕込みの所作を守る——これが「不易」である。だが同時に、同じ蔵が、海外の食卓に合わせた新しい一本を生み出し、時代の求めに応えてきた。みりんが飲む酒から調味料へと姿を変え、白醤油が白だしへと展開したように——これが「流行」である。

変わらないものを土台に、変わるものを重ねる。あるいは、変わり続けることでこそ、変わらない本質を保つ。碧南の蔵々が二百年やってきたことは、芭蕉が俳諧に見出したこの「不易流行」の、食における実践にほかならなかった。禅・茶・俳諧——日本の精神文化を貫くこれらの知恵が、この土地では発酵という形をとって生きている。


四 近代への結実 — 哲学の村、無我苑

千年の昔から流れてきたこの精神の水脈は、近代に至って、この土地に一つの象徴的な場所を生んだ。碧南の西端にある「哲学たいけん村無我苑(むがえん)」である9

その名は、郷土の哲学思想家・伊藤証信(一八七六〜一九六三)に由来する9。証信が昭和九年(一九三四年)に開いた研修道場「無我苑」の跡地を、遺族が碧南市に寄贈し、一九九二年に再建されたもので、名誉村長には哲学者・梅原猛が迎えられた10。証信は、清沢満之に学び、「無我愛」を提唱し、仏教にとどまらず西洋哲学にまで及ぶ思索を重ねた人物である11

無我苑には、瞑想回廊とともに、立礼茶席や茶室が設けられている912。千年前に禅とともに来た茶が、近代の哲学の村でなお一服の形で受け継がれている——この符合は美しい。発酵を育んだ土地が、近代において「考えるための村」「心を整えるための場」を生んだことは、この地に流れる精神の水脈が、今も枯れていないことの証である。

無我苑は、世界に名を知られた施設ではない。だがそれゆえに、これは碧南だけが持つ、静かな宝である。千年の精神文化が、この土地で、一つの哲学の村にまで結実した——その事実が、ここにある。


五 時を醸す、ということ

最後に、この章で辿ってきたものを束ねたい。

発酵とは「待つ」営みである。そして碧南は、その「待つ」営みのまわりに、千年の精神文化——禅とともに来た茶、わび・さびの美意識、不易流行の知恵、そして近代の哲学の村——を、層をなして抱えてきた土地であった。

これらは別々のものではない。発酵が時間に素材を委ねるように、茶が一服の時間に心を委ねるように、いずれも「時間を信頼する」という一点で深く通じている。性急に答えを出さず、時が熟すのを待つ。その姿勢こそ、この土地が千年をかけて育んできた、目に見えない財産である。

碧南の発酵を、単なる調味料の産地として見るなら、その半分しか見たことにならない。この土地は、味を醸すと同時に、時間そのものへの態度——「待つことを尊ぶ」精神——をも醸してきた。それは、消費の速度がますます増していく現代において、むしろ稀少で、貴いものであるかもしれない。

そしてこの「待つ」精神の源流は、碧南という一地方を超えて、日本という国が二千年をかけて育んできた、より深い精神世界観へとつながっている。その全体像——禅、武士道、茶の湯、そして日本独自の美意識と死生観——については、Hosomichiの別稿「日本の精神世界観」で詳しく辿ることになる。本章は、その大きな水脈が、碧南の発酵という一つの泉に湧き出ている様を、描いたにすぎない。

序章から本章まで、私たちは碧南という土地を、地理から、海から、みりんから、白醤油から、生態系から、そして精神文化から辿ってきた。次の結章では、これらすべてを携えて、ふたたび「現在」へと立ち返る。二百年の不易を抱えたこの土地が、いま何を流行として世界へ差し出そうとしているのか——その姿を見届けて、この文化誌を閉じたい。


文献・出典


※ 本稿は碧南醸造文化誌(ホワイトペーパー)の第五章である。記載した事実は出典に基づく。西尾抹茶・実相寺の起源(1271年・聖一国師)は西尾市公式資料等に拠った。なお「西尾茶の起源」には聖一国師の茶種将来をめぐり伝承的要素も含まれ、本格的な抹茶産業化は明治期(紅樹院・足立順道)以降である点を付記する。日本の精神文化そのものの体系的記述は本章の射程を超えるため、Hosomichi別稿「日本の精神世界観」に譲り、本章は碧南の発酵との接点に限定した。「不易流行」は芭蕉自身が直接書き残した例は確認されておらず、門人の俳論書『去来抄』『三冊子』を通じて伝えられた理念である。

Footnotes

  1. 「西尾の抹茶・お茶」西尾市公式ウェブサイト(西尾では文永8年〔1271〕創建の実相寺境内に、その開祖・聖一国師が最初の茶種をまいたのが西尾茶の起源とされることに関する記述). https://www.city.nishio.aichi.jp/sportskanko/kanko/1005620/1001475/1002604.html 2

  2. 「西尾茶」Wikipedia(1271年〔文永8年〕、実相寺の開祖・聖一国師が宋から茶の種を持ち帰り境内に播いたことが西尾茶の起源とされることに関する記述). https://ja.wikipedia.org/wiki/西尾茶

  3. 「【西尾の抹茶】鎌倉時代の実相寺で発祥?」戦国きらら隊(実相寺が1271年創建で三河最初の臨済宗〔禅宗〕寺院であったことに関する記述。神奈川県立歴史博物館特別展「中世東国の茶」展示図録に基づく). https://ameblo.jp/8omote/entry-12444227213.html

  4. 「中部発・地域ブランド『西尾の抹茶』」CREC地域ブランド資料(聖一国師が『喫茶養生記』を著した臨済宗の開祖・栄西の弟子であり京都・東福寺を開いた高僧であること、栄西・聖一国師が茶の養生延命の効力と禅の修行への有用性を広めたことに関する記述). http://www.criser.jp/document/crec/167chiiki2.pdf 2

  5. 「【西尾の抹茶】鎌倉時代の実相寺で発祥?」戦国きらら隊(鎌倉時代の禅宗において禅僧が茶を修行・作法で用い、養生の薬・睡魔を抑える飲料として日常に溶け込ませていたことに関する記述). https://ameblo.jp/8omote/entry-12444227213.html

  6. 「不易流行」コトバンク(日本大百科全書ほか)(「不易」は時代を超越して不変なるもの、「流行」はそのときどきに変化してゆくもの、両者は対立せず根本は一つで芭蕉はそれを「風雅の誠」と呼んだことに関する記述). https://kotobank.jp/word/不易流行-123091 2

  7. 「不易流行」Weblio辞書(四字熟語)/向井去来『去来抄』(1702-04年)(『去来抄』の「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」の出典と意味に関する記述). https://www.weblio.jp/content/不易流行 2

  8. 「不易流行とは?」日本俳句研究会/服部土芳『三冊子』(「師の風雅に万代不易あり。一時の変化あり。この二つ究まり、其の本は一つなり。その一つといふは、風雅の誠なり」、その根本が「風雅の誠」であることに関する記述). https://jphaiku.jp/how/huekiryuukou.html

  9. 「哲学たいけん村『無我苑』」へきなん観光ナビ(碧南市公式観光サイト)(無我苑が郷土の哲学者・伊藤証信にちなんで誕生した文化施設であること、立礼茶席・瞑想回廊等の施設に関する記述). https://www.hekinan-kanko.jp/highlight/detail/41/ 2 3

  10. 「碧南市哲学たいけん村無我苑」Wikipedia(1934年に伊藤証信が開設した研修道場の跡地を遺族が碧南市に寄贈し1992年に開苑したこと、名誉村長に梅原猛を迎えたことに関する記述). https://ja.wikipedia.org/wiki/碧南市哲学たいけん村無我苑

  11. 「郷土に生きた哲学思想家 伊藤証信」碧南市公式(証信が清沢満之に学び「無我愛」を提唱したこと、仏教にとどまらず西洋哲学にまで及ぶ研究と思索を重ねたことに関する記述). https://www.city.hekinan.lg.jp/soshiki/kyouiku/bunkazai/1_3/itoshoushin/4927.html

  12. 「碧南市哲学たいけん村無我苑」愛知県生涯学習情報提供システム(瞑想回廊・研修道場・市民茶室の三建物からなり、立礼茶席で抹茶の呈茶があることに関する記述). https://www.manabi.pref.aichi.jp/search/searchdtl.aspx?stdycd=1120601&ht=1&knd=6