碧南醸造文化誌

第一章

海の道 — 大浜湊と廻船がつないだ江戸

Hosomichi Chronicle of Hekinan — Chapter One


はじめに — なぜ「運ぶ力」が文化を決めたのか

序章で、碧南という土地が地形によって醸造を選ばれたことを見た。だが、良い水と豊かな米があるだけでは、これほどの醸造文化は育たない。造ったものを、買ってくれる大きな市場へ届ける術——「運ぶ力」がなければ、発酵は一地方の自給で終わっていた。

碧南の醸造を、地方の産から日本有数の文化へと押し上げたもの。それが、海であった。江戸という巨大都市と碧南を結んだ「海の道」、すなわち廻船の物語こそ、この土地の発酵を理解する鍵である。本章では、船が運んだのは荷だけではなく、文化そのものであったことを描きたい。


一 大浜 — 海・川・陸が交わる場所

碧南市の中心部にあたる大浜(おおはま)は、江戸時代、衣浦湾に開いた物流の要衝であった。

大浜から岡崎、豊田を経て信州へ抜ける「大浜街道」は、鎌倉時代に開かれたとされ、塩や海産物を内陸へ運ぶ重要な街道であった1。江戸時代には、この一帯で醤油・味噌・酒・みりんといった醸造業や瓦業が発展し、それらを江戸へ運ぶ海運業が栄えた。こうして大浜は、海・川・陸の街道が交わる物流拠点として、人・物・富・情報が集まる豊かな土地となったのである1

今も大浜の寺町には、立派な構えの寺社が並び、黒板塀の土蔵や屋敷、入り組んだ路地といった古いたたずまいが残る1。これらは、かつてこの土地に流れ込んだ富の記憶である。発酵がもたらした繁栄の風景が、二一世紀の今も歩いて辿れる——それが大浜という場所の稀有さだ。


二 尾州廻船 — 知多半島が生んだ海の集団

碧南の発酵を江戸へ運んだのは、「尾州廻船(びしゅうかいせん)」と呼ばれる海運集団であった。

尾州廻船とは、江戸時代後期から明治にかけて、尾張国の知多半島を拠点に活躍した廻船集団である2。大野・野間・常滑・内海・半田・亀崎など、知多半島各地を拠点とし、菱垣廻船(ひがきかいせん)や樽廻船(たるかいせん)の間を縫うように、本州太平洋側に展開した。主に上方・伊勢湾地域・江戸を結ぶ海運を担い、その規模は、一八五七年には二五〇艘もの船を抱えるほどの巨大集団であった2

ここで碧南が登場する。半田や亀崎の船は、対岸の刈谷・高浜・大浜(碧南)の船主などと共同することが多く、衣浦湾沿岸でつくられる醸造品——酒・酢・味醂など——や瓦を、江戸へと運んだのである3。碧南の発酵は、こうして尾州廻船という海のネットワークに乗り、江戸の食卓へと届けられた。

そして、ここに尾州廻船の経済的な本質がある。彼らは、ただ荷物を預かって運賃を得る運送業者ではなかった。生産地で商品を自ら買い取り、それを高く売れる場所へ運んで売買差益を得る——この方式を「買積み(かいづみ)」という2。船主自身が商人であり、相場を読み、危険を負って利を得る。廻船は、海を渡る投機的な事業者だったのである。


三 「海の道」が産業を生んだ

ここで、序章で立てた問いに、海運の側から答えが返ってくる。

江戸時代になると、流通する物資の量が飛躍的に増大した。知多半島を拠点とする尾州廻船は、一八世紀になると航海範囲を広げ、全国的な流通網のなかで大きな位置を占めるようになる3。そして——半田や亀崎をはじめ衣浦湾沿岸に、巨大な江戸市場をターゲットとした酒・酢・瓦などの製造業が発達したのは、船がつなぐ「海の道」があったからこそであった3

この一文は、碧南の発酵文化の核心を突いている。発酵が先にあって船が運んだのではない。運ぶ術(海の道)があったからこそ、巨大市場向けの醸造業が発達したのである。地形が米と水を与え、海が市場への道を与えた。この二つが噛み合ったとき、碧南の発酵は地方の産から「江戸の食を支える文化」へと飛躍した。

尾州廻船の各拠点では、船主や船頭が組合を結成し、取引や乗組員の行動について規約を設けるなど、自律的な集団として荷主や取引相手の信頼を獲得しようとしていた3。海運と醸造は、互いに支え合う関係にあった。半田の下半田村では、醸造蔵が建ち並ぶ一角の業葉(なりは)神社の棟札に、醸造家とともに廻船主・船頭らの名が数多く刻まれ、神輿は二六艘の船の船頭が資金を積み立てて寄進したものだという3。海の人々と、発酵の人々と——両者は持ちつ持たれつで、地域そのものを成り立たせていた。


四 江戸という巨大市場と「下り物」

碧南の発酵が目指した先、江戸とはどのような市場だったのか。

江戸時代、幕府公認の菱垣廻船は大坂と江戸を定期的に往復し、畿内や西国の物資を江戸へ運んで、その需要をまかなっていた4。やがて、江戸で重宝された上方の酒を専門に扱う樽廻船が菱垣廻船から独立し、輸送はいっそう活発化する4。江戸後期には、大坂から江戸まで六〜一二日で到着したと言われる5

当時、京都・大坂は「上方(かみがた)」と呼ばれ、そこへ向かうことを「上る」、遠ざかることを「下る」と言った5。江戸の人々は、大坂からやってくる積み荷を「上方から下ってきた物」すなわち「下り物(くだりもの)」と呼び、江戸周辺の品より品質が高いとして、たいへん珍重した5

碧南の発酵——とりわけ、甘く芳醇なみりんや、素材を活かす白醤油——は、こうした「本物が集まる江戸」という巨大市場に向けて磨かれていった。地方の自給のためではなく、目の肥えた大消費地に選ばれるために、品質が追求されたのである。この「外の大きな市場に向けて、本物を磨く」という構造は、現代において碧南の発酵が世界へ向かう姿と、静かに響き合っている。


五 船が運んだのは、文化だった

第一章を結ぼう。

碧南の発酵を江戸へ運んだ「海の道」は、単なる物流ではなかった。大浜という海・川・陸の結節点1。知多半島が生んだ尾州廻船という巨大な海運集団2。船主自らが商人として相場に挑む買積みの精神2。そして、巨大な江戸市場が「海の道」の存在ゆえに醸造業を生んだという、運搬と生産の不可分な関係3

これらすべてが束ねられたとき、見えてくるのは一つの事実である。船が運んだのは、酒や酢やみりんという荷だけではなかった。それは、碧南という土地が時間をかけて醸した文化そのものを、江戸へ、そして日本中へと運ぶ営みだった。

廻船は、いわば「旅する発酵」であった。土地に根ざして動かぬはずの発酵が、海を越えて旅をする。動かぬものと、動くもの。根づくことと、旅すること。この二つが碧南において一つに結ばれていたことは、この事業が掲げる「旅」という主題の、最も古い源流である。

次章では、その船が運んだ最も象徴的な産——みりんそのものへと、筆を進める。甘い酒が、いかにして日本の食卓を変えたのか。その発明の物語を辿りたい。


文献・出典


※ 本稿は碧南醸造文化誌(ホワイトペーパー)の第一章である。記載した事実は出典に基づく。なお尾州廻船・廻船史については、ミツカン水の文化センター機関誌『水の文化』第25号における研究者インタビュー等、より専門的な二次・一次資料が存在し、今後の改訂で大浜・碧南に固有の廻船史料(自治体史・船主家文書等)による裏づけを補強する予定である。

Footnotes

  1. 「Shall We Walk? 大浜街道を歩こう!」けんぽれんあいち(大浜街道が鎌倉時代に開かれ塩・海産物を信州へ運んだこと、江戸時代の醸造業・瓦業の発展と海運、大浜が海・川・陸の物流拠点となったこと、大浜寺町に残る土蔵・屋敷・路地の景観に関する記述). https://kenporen-aichi.jp/shallwewalk_ohama 2 3 4

  2. 「尾州廻船」Wikipedia(江戸後期〜明治、知多半島を拠点とする廻船集団であること、大野・野間・常滑・内海・半田・亀崎の各拠点、菱垣廻船・樽廻船の間を展開、上方-伊勢湾-江戸の海運、1857年に250艘の規模、買積み方式に関する記述). https://ja.wikipedia.org/wiki/尾州廻船 2 3 4 5

  3. 招鶴亭文庫 企画展「海にひらく半田 〜湊と廻船」(2011年)(半田・亀崎の船が対岸の刈谷・高浜・大浜の船主と共同し衣浦湾沿岸の醸造品〔酒・酢・味醂〕や瓦を江戸へ運んだこと、巨大な江戸市場をターゲットとした製造業が「海の道」ゆえに発達したこと、尾州廻船の航海範囲拡大、各拠点の組合と規約、下半田村・業葉神社の棟札と神輿に関する記述). https://shoukakutei.or.jp/works/2011313.html 2 3 4 5 6

  4. 「菱垣廻船・樽廻船」日本史辞典/ホームメイト(菱垣廻船が大坂-江戸を定期往復し畿内・西国の物資を江戸へ運んだこと、樽廻船の独立に関する記述). https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/higakikaisen-tarukaisen/ 2

  5. 「菱垣廻船・樽廻船」日本史辞典/ホームメイト(江戸後期に大坂-江戸間を6〜12日で到着、「上る・下る」「下り物」と江戸での珍重に関する記述). https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/higakikaisen-tarukaisen/ 2 3