水脈 ― 河口(かこう)
序章 皿の上の水脈 — 和食は、火の前に菌の料理だった
Washoku, the Fermented Cuisine — Prologue: Before Fire, a Cuisine of Microbes
はじめに — 「火の料理」という誤解
和食と聞いて、私たちは何を思い浮かべるだろう。研ぎ澄まされた包丁の仕事。皿の上に映された四季。一汁三菜の静かな均衡。新鮮な素材を、できるだけ手を加えずに供する——和食とは、そうした「引き算の料理」だと、私たちは思っている。
それは間違いではない。だが、その引き算が成り立つためには、引かれてもなお舌に残る、深い土台が要る。素材から余計なものを削いでいって、最後に残る一点。その一点を、誰がつくっているのか。
火ではない。菌である。
和食は、火の料理である前に、菌の料理だった。本書は、その見えにくい土台——発酵——を、一本の水脈としてたどる試みである。
一 だしの底にあるもの — 一九〇八年の発見
和食の味の中心には、いつも「うま味」がある。甘い、塩からい、酸っぱい、苦い——古くから知られたこの四つの基本の味のどれにも当てはまらない、第五の味。それが和食の奥行きを支えている。
このうま味が、科学の言葉で捉えられたのは、それほど昔のことではない。一九〇八年、東京帝国大学の池田菊苗が、昆布のだしのなかから、その正体がグルタミン酸であることを突きとめ、これを「うま味」と名づけた。1 四つの基本味とは別の、もうひとつの味が、ここで初めて言葉を得た。
うま味は、ただ味を豊かにするだけではない。動物性の脂に頼らずとも深い満足を生むという、和食の特質そのものを支えている。和食が世界遺産として評価されたときも、うま味を巧みに使い、動物性油脂の少ない食生活を実現してきたことが、その理由のひとつに挙げられた。2
そして、このうま味を引き出すのは、昆布、そして鰹節のような、時間と菌の手を経たものたちである。澄んだだしの、あの底知れぬ深さの底には、発酵がある。
二 さしすせそ、あるいは台所の発酵
うま味は、特別な日の料理のなかにだけあるのではない。日々の台所の、いちばん基本のところに棲んでいる。
日本の調味の土台を、人は「さしすせそ」と呼ぶ。砂糖、塩、酢、醤油、味噌。この五つのうち、味に奥行きと余韻を与える酢・醤油・味噌は、いずれも発酵から生まれる。みりんもまた、その仲間である。砂糖と塩は発酵ではない——ここは正確に分けておきたい。だが、料理に「味の芯」を通すものは、ほとんどが菌の仕事なのである。
つまり日本の台所は、そのいちばん深いところで、発酵に支えられている。私たちは毎日、気づかぬうちに、何百年もの時間が積み上げた味の土台を、匙ですくっているのだ。
三 二つの水系 — 麹と、細菌
ただし、和食の発酵は、一枚岩ではない。大きく二つの水系がある。
ひとつは、麹(こうじ)——すなわちカビの系統である。醤に始まり、味噌、醤油、みりん、そして鰹節へと至る、この国の発酵の主流。日本は、しばしば「麹の文明」とも呼ばれる。
だが、もうひとつの流れがある。細菌の系統だ。糸を引く納豆は、麹ではなく枯草菌(こそうきん)という細菌の働きで生まれる。鮨の遠い祖先である熟れ鮨もまた、乳酸菌の発酵によるものだ。麹とは別の菌が、別の味をつくっている。
本書は、この二つの流れの、どちらもたどる。和食という大きな川は、性格の異なる二つの水系が合わさって、できている。
四 源から、淵から、河口へ
この白書は、三つ目の水脈である。
第一の白書「源(みなもと)」では、なぜ日本人がこう感じ、こう考えるのか——その精神の源流をたどった。第二の白書「淵(ふち)」では、その精神が、碧南というひとつの土地の蔵に、どう凝っていったかを見た。そしてこの「河口(かこう)」で、水脈はついに皿の上に出る。発酵が、和食という食卓のかたちをとって、人の口に入り、やがて世界に届くところまで。
興味深いのは、和食が世界に認められたとき、評価の核に置かれたのが「自然を尊ぶ日本人の心」だったことだ。2 それは、第一の白書「源」がたどった、あの精神そのものにほかならない。河口まで流れ下った水は、海に出る手前で、ふたたび源に出会う。食の話は、めぐって、心の話に還っていく。
結び — これからたどる流れ
これから、私たちは流れをさかのぼり、また下っていく。すべての発酵調味料の祖である醤(ひしお)にさかのぼり(第一章)、麹ではない納豆の系統に分け入り(第二章)、肉を断った精進の食卓を訪ね(第三章)、鮨の発酵の起源にふれ(第四章)、だしとうま味の発見に立ち会い(第五章)、そして台所のさしすせそにたどりつく(第六章)。最後に、二〇一三年、世界が和食を「人類の遺産」として認めた、その日へと出る(結章)。
皿の上の、見えない水脈をたどる旅である。箸を持つ手の下に、二千年が流れていることを、これから一章ずつ、確かめていきたい。
文献・出典
※ 本稿は和食をめぐる白書の序章である。うま味の発見と和食のユネスコ登録については出典を示した。さしすせそ・鰹節・納豆・鮨の発酵機構は、それぞれ後続の各章で詳述し、出典を付す。なお「さしすせそ」のうち砂糖と塩は発酵によるものではなく、発酵から生まれるのは酢・醤油・味噌(およびみりん)である点を、本文に明記した。
Footnotes
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「池田菊苗」うま味インフォメーションセンター(一九〇八年、東京帝国大学の池田菊苗が昆布のだしからグルタミン酸を抽出し、甘・塩・酸・苦の四基本味とは異なる第五の味を「うま味」と命名したことに関する記述)https://www.umamiinfo.jp/ikedakikunae/ /「うま味発見から商品化への軌跡 — 池田菊苗物語」味の素グループ(一九〇八年の昆布だしからのグルタミン酸結晶化と「うま味」命名に関する記述). https://story.ajinomoto.co.jp/history/020.html ↩
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「『和食』がユネスコ無形文化遺産に登録されています」農林水産省(二〇一三年に「和食;日本人の伝統的な食文化」が「自然を尊ぶ」日本人の心の表現として無形文化遺産に登録されたこと、「うま味」を生かして動物性油脂の少ない食生活を実現してきたことに関する記述)https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/ich/ /「『和食』がユネスコ無形文化遺産に登録」nippon.com(二〇一三年十二月四日の登録決定に関する記述). https://www.nippon.com/ja/behind/l00052/ ↩ ↩2