第五章
蔵 — 発酵に加わる建築
Chronicle of Hekinan — Chapter Five: The Kura, Architecture that Joins the Ferment
はじめに — 器か、装置か
前章までに、私たちはこの土に集まった発酵の文化を追ってきた。海の道がみりんを生み、二世紀前には白醤油を生んだ、ひとつの土壌。だがその物語には、まだ語られていない登場人物がいる。建物である。
発酵を語るとき、私たちはふつう、原料とつくり手のことを思う。米、麹、水、そして人の手。建物は、その仕事を入れておく「器」にすぎない——そう考えがちである。
本章は、その見方をひっくり返したい。蔵は、発酵を入れておくための器ではない。蔵そのものが、発酵に加わっている。温度を保ち、湿気を調え、菌を棲まわせ、時間を抱える——建物は、発酵の「装置」なのである。
この「器か、装置か」という問いを、みりんという一本の糸でたどってみたい。なぜみりんか。みりんは、発酵のなかでも特異な甘さの酒であり、そしてその甘さは、つくられる場所と、流れる時間とに、深く依存しているからである。
一 麹室 — 木でできた、気候の装置
みりんの甘さは、どこで生まれるのか。その出発点は、麹室(こうじむろ)という小さな部屋にある。
みりんは、蒸したもち米に米麹を合わせ、そこに焼酎を加えて仕込み、搾って、半年から一年、あるいはそれ以上を寝かせてつくられる1。その第一歩、米を甘さに変える鍵を握るのが、麹である。麹のもつ糖化酵素——アミラーゼと呼ばれる酵素群——が、米のでんぷんを、少しずつ糖へと分解していく2。みりんのあの澄んだ甘さは、この酵素の、地道な仕事の結晶なのである。
その麹を育てる部屋が、麹室だ。麹菌は繊細な微生物で、温度と湿度のわずかな変化に左右される。だから麹室は、外気から遮断され、およそ三十度前後の温度と、一定の湿度を保つようにつくられている2。電気の力を借りるよりずっと前から、この部屋は、菌のための気候を、人の手だけでつくり出してきた。
ここで目を留めたいのは、その壁の素材である。麹室には、古くから杉の板が用いられてきた。杉には調湿性がある——湿気を吸い、また吐き出すことで、室内の湿度をやわらかく整える3。今日では、掃除がしやすく雑菌を制御しやすいステンレスや樹脂の壁を選ぶ蔵も多い。それは合理的な選択である。それでもなお、木の調湿という、昔から良いと伝えられてきた働きを守るために、あえて木の壁を選び続ける蔵がある3。
ここに、最初の答えがある。麹室は、ただ菌を入れておく箱ではない。木という素材そのものが、湿度を調える働きをしている。建物が、菌のための環境を、能動的につくり出している。これはもう、器ではない。装置である。
二 止める、そして待つ — 蔵が抱える時間
麹が米を糖に変えはじめる。だが、みりんの甘さには、もう一つの仕掛けがある。「止める」という働きである。
ふつうの酒づくりであれば、生まれた糖は、酵母の働きによってアルコールへと変えられていく。糖は消費され、酒になる。ところがみりんでは、仕込みの最初から焼酎を加えるため、もろみのアルコール度数が高い。この高いアルコールが、酵母による発酵を起こさせない4。糖は、アルコールに変わる道を断たれ、行き場を失う。そして、樽のなかに、そのまま溜まっていく。逃げ場を失った甘さが、静かに濃くなっていく——これがみりんの甘さの正体である。本みりんの糖の七割から八割は、ブドウ糖だという5。同時に、その高いアルコールは、雑菌の繁殖を防ぐ番人ともなる4。
甘さが樽に溜まったら、あとは、待つ。半年、一年、ものによっては数年1。この熟成のあいだに、糖とアミノ酸が絡み合い、色は澄んだ琥珀へと深まり、香りが生まれていく。
この長い待ち時間を抱えるのが、貯蔵の蔵である。そしてここでも、建物が働いている。みりんの熟成に必要なのは、急がないこと、温度が大きく振れないこと、湿気が一定であることだ。日本の伝統的な蔵——土蔵は、まさにこの条件のためにつくられている。
三 呼吸する壁 — 土と漆喰の微気候
土蔵とは、木の骨組みに厚い土壁を塗り重ね、表面を漆喰で仕上げた建物である6。酒や醤油をつくる醸造の蔵も、この土蔵造りの一種にほかならない6。
その厚い土壁は、優れた断熱性をもつ。夏は涼しく、冬は暖かく、内部の温度を穏やかに保つ6。外がどれほど暑くても寒くても、蔵のなかは、一日のあいだ、ほとんど表情を変えない。みりんの長い眠りに必要な、あの安定した温度が、ここにある。
そして土壁と漆喰には、もう一つの働きがある。調湿である。土の壁は、空気が湿ってくれば湿気を吸い、乾いてくれば吐き出す7。壁が、呼吸をしているのだ。この呼吸する膜の内側で、湿度は大きく振れることなく、一定に保たれる。だからこそ蔵は古くから、大切なものを湿気から守って仕舞う場所として使われてきた6。
ここで、近代の発想と並べてみると、この建築の独自性が際立つ。温度と湿度を一定に保とうとするとき、合理的な発想であれば、私たちは密閉し、機械で制御しようとする。空気を遮断し、外から数値を管理する。それも一つの正しさである。
だが土蔵が選んだのは、正反対の道であった。遮断するのではなく、呼吸させる。制御するのではなく、調える。壁そのものに湿気を吸わせ、吐かせ、その働きを、素材の性質に委ねる。この「委ねる」という構えは、急がず、菌に、時間に、流れに身をゆだねる発酵のふるまいと、そのまま響き合っている。建物のつくり方そのものが、発酵の哲学を映しているのである。
四 蔵付き — 建築のテロワール
ここまで、建物が温度と湿気を通じて発酵に加わることを見てきた。だが、建物の関与には、さらに深い層がある。建物そのものに、微生物が棲みついているのである。
古くからの醸造の蔵には、その蔵だけの微生物の生態系が、梁に、柱に、壁に、道具に棲みついている。これを「蔵付き」の菌、あるいは蔵付き酵母と呼ぶ8。培養した酵母を加えなくとも、こうした蔵付きの菌が自然に取り込まれて発酵を担い、その蔵ならではの味わいを生む8。近年では、この蔵付きの菌が、酒の味や香りに確かに影響していることが、大学の研究によっても示されつつある9。
この事実は、一つの重い意味をもつ。その建物でしか、その味は生まれない、ということである。ある酒蔵が津波で建物を流されたとき、あらかじめ研究機関に預けておいた蔵付き酵母のおかげで、移転した土地で以前と同じ酒づくりを再開できたという話がある10。裏を返せば、菌を持ち出さなければ、建物を建て直しても、同じ味には戻らない。味は、レシピのなかにあるのではない。建物のなかに、棲んでいる。
私たちは土地の個性を語るとき、ぶどう畑のテロワールという言葉を使う。土壌、気候、地形が味を決めるという考えである。だが、ここで見えてくるのは、別のテロワールだ。建築のテロワール。何百年ものあいだ菌が棲み、時間が染み込んだ建物そのものが、味の個性を担っている。
ただし、ここで正直に断っておかねばならない。この蔵付きの菌の働きが最も色濃く現れるのは、日本酒のように、菌の発酵そのものに大きく委ねる造りにおいてである。みりんは、高い糖と加えられたアルコールが雑菌を抑えるため、壁に棲む野生の菌が味を左右する度合いは、それらに比べれば小さい4。みりんにおける建物の貢献は、何より、温度と湿気を調え、長い時間を抱えることにある。
それでも、みりんはこの土の発酵文化の、まぎれもない一部である。この地のみりんは、もともと、酒づくりと、その酒粕からとる焼酎の文化のうえに生まれてきた11。蔵付きの菌が息づく醸造の世界——その同じ土壌から、みりんもまた育った。建築のテロワールとは、この土の発酵文化の全体が、分かちもつ遺産なのである。
結び — 建物は、待っている
この章で見たのは、発酵における、もう一人の登場人物——建物であった。
麹室は、木の壁で湿度を調え、菌のための気候をつくる。貯蔵の蔵は、厚い土壁で温度を保ち、呼吸する壁で湿気を調え、みりんの長い眠りを抱える。そして醸造の蔵には、その建物だけの菌が棲み、味の個性そのものを担っている。建物は、発酵を入れておく器ではない。温度を保ち、湿気を調え、菌を棲まわせ、時間を抱える——発酵の「装置」であり、「参加者」なのである。
みりんの熟成を終えた樽を搾ると、あとに、白い粕が残る。ほろほろと崩れるその粕を、昔の人は、満開の梅の花がこぼれ落ちる姿になぞらえて、こぼれ梅と呼んだ12。搾り粕に、花の名を与える。それくらいに、この甘さは、美しいものだった。江戸時代の百科事典『和漢三才図会』にも、甘い菓子として記されているほどである12。
その甘さの始まりは、麹室の木の壁にあり、その甘さの深まりは、土壁の蔵の時間のなかにあった。
蔵のなかに立つと、何かが起きているようには見えない。音もなく、動きもない。ただ涼しく、暗く、静かである。けれど、その静けさのなかで、建物は、いちばん長い仕事を続けている。待つ、という仕事を。
この建物は、みりんを入れておくための、ただの器ではない。建物そのものが、待つこと、なのである。
文献・出典
※ 本稿は碧南の発酵文化をめぐる白書の一章である。記載した事実は出典に基づく。なお、蔵付きの菌が味に与える影響は主に日本酒についての知見であり、みりんにおいては高い糖とアルコールにより野生の菌の関与は限定的である点を、本文中に明記した。みりんにおける建物の寄与は、おもに温度・湿度の調整と、長期熟成の保持にある。建築の断熱・調湿性能は伝統建築一般に関する記述に基づくものであり、特定施設の実測値ではない。個々の醸造元に固有の構造・菌叢については、一次情報の確認のうえ今後の改訂で補強する。
Footnotes
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「本みりんを知る — みりんの種類」九重味淋株式会社(本みりんがもち米・米麹・焼酎を原料とし、蒸したもち米と米麹に焼酎を加えて仕込み、搾ったのち半年から一年、伝統製法ではさらに長く貯蔵熟成させることに関する記述). https://kokonoe.co.jp/mirin04 ↩ ↩2
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「日本酒造りの要『麹造り』を知ろう」SAKE Street(麹室が麹菌を繁殖させるため外気から遮断され温度約三十度・湿度約六十パーセントに保たれること、麹菌のもつ糖化酵素アミラーゼがデンプンを糖に分解することに関する記述). https://sakestreet.com/ja/media/what-is-koji-mold ↩ ↩2
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「酒蔵の麹室とは」アンカーマン(杉に調湿性があり木の呼吸を活かして湿度を調整する伝統的な杉板張りの麹室に関する記述)https://anchorman-inc.tokyo/kojimuro-guide/「麹室再建にみえる古式伝承」日本酒ツーリズム(ステンレスや樹脂の壁が雑菌を制御しやすく合理的である一方、木の調湿効果を取り入れるためあえて木造の麹室を選ぶ蔵があることに関する記述). https://nihonshu-tourism.com/archives/4704 ↩ ↩2
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「本みりんのつくり方」キッコーマン(本みりんのもろみは初めからアルコール度数が高いため酵母によるアルコール発酵が行われず、麹の働きで生じた糖が蓄積して特有の甘みが生まれること、アルコールがカビその他の雑菌の増殖を防ぐ役割をもつことに関する記述). https://www.kikkoman.co.jp/enjoys/mirin/making.html ↩ ↩2 ↩3
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「本みりんを知ろう」全国本みりん協議会(本みりんの糖類はもち米と米こうじのでんぷんが糖化されたもので、全体の七〜八割をグルコースが占めることに関する記述). http://zenkokuhonmirin.com/study.html ↩
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「土蔵」DAIKEN 建築用語集(土蔵が木骨・土壁を漆喰で仕上げた建築で、酒や醤油を生産する醸造蔵も土蔵の一種であること、火災・湿気・盗難から収納物を守る機能をもつことに関する記述)https://www.daiken.jp/buildingmaterials/glossary/materials/dozou//「土蔵造りの魅力と構造の変遷」伊藤建築設計事務所(厚い土壁による優れた断熱性で夏は涼しく冬は暖かく内部環境を保つことに関する記述). https://ito-sekkei.co.jp/staff-blog/dozo-dukuri-architecture/ ↩ ↩2 ↩3 ↩4
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「土壁・漆喰」小坂建設(土壁と漆喰が一体となって調湿機能をもち、室内の湿度を整えることに関する記述)https://www.kosakakensetsu.com/tradition/4.html/「日本伝統の土蔵造り、その利点と歴史を知る」LIFULL HOME'S PRESS(漆喰が耐水・耐火性に優れ、土台となる土壁が調湿性をもつため大切な品を仕舞う蔵に多用されてきたことに関する記述). https://www.homes.co.jp/cont/press/reform/reform_00356/ ↩
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「蔵付き酵母とは」SAKE Street(蔵付き酵母がその酒蔵に棲みつく酵母であり、麹や容器・道具に付着して自然に増殖し発酵を担うこと、その蔵ならではの味わいの表現に向くことに関する記述). https://sakestreet.com/ja/media/what-is-kuratsuki-koubo ↩ ↩2
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「蔵付きバクテリアが日本酒の味に影響する」東洋大学(西田洋巳研究室が清酒酵母と蔵付きバクテリアの相互作用を解析し、蔵付きバクテリアが清酒酵母の遺伝子発現を変化させ味や香りに影響を及ぼすことを示した研究成果に関する記述). https://digitalpr.jp/r/90255 ↩
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「酒蔵の壁にひっそり棲んでいる?『蔵付き酵母』について」Sake World(津波で建屋が流された酒蔵が、自社の蔵付き酵母を研究機関に預けていたおかげで移転先で以前と同じ酒造りを再開できたこと、蔵付き酵母が蔵のアイデンティティの一端といえることに関する記述). https://sakeworld.jp/trivia/2504-nihonshu-kuradukikobo/ ↩
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「きくち村のこぼれ梅」きくち村(三河平野が肥沃で穀物栽培が盛んであったこと、醤油・味噌・日本酒が盛んに作られ、日本酒の酒粕からとる粕焼酎を用いて三河みりんが作られるようになったこと、三河が全国有数のみりんの産地であることに関する記述). https://kikuchimura.jp/?pid=161566665 ↩
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「幻の食材?! みりん粕『こぼれ梅』」丸ごと小泉武夫 食マガジン(みりんの搾り粕が真っ白でぽろぽろした形状をなし、満開の梅の花がこぼれ落ちる様に見えることから「こぼれ梅」と呼ばれること、江戸時代中期の百科事典『和漢三才図会』に甘い菓子として登場することに関する記述). https://koizumipress.com/archives/3377 ↩ ↩2